昭和47年10月29日 朝の御理解



 御神訓 一、「家柄人柄一筋を改むるより 互いに人情がらを改めよ。」
      一、「子を産むは我力で産むとは思うな皆親神の恵む処ぞ。」
     一、「懐妊の時復帯をするより心に真の帯をせよ。」
     一、「出産の時よかり物によかるより神に心を任せよかれよ。」

  結婚そして出産と言う様な事を取り上げての是は御教だと思います。まず結婚と言う事になりますと、必ず家柄とか人筋とかと言う風に、聞き合わせを致しましたり致しますですね。私は今度あの山陰地方の、特に出雲近辺の、まあ何と言うですかね、まあ村とでも申しましょうか、たくさんありますけれども、まとまった部落と言うものがないですね、例えばこの辺の石浦とか合楽あたりは。
 石浦なら石浦、合楽なら合楽とか一杯そのあるんです、所がそのどこまで走っても走ってもあの辺りはですねえ、ポツンポツンと家があるのです。それでいて一軒一軒がですねひとつの森をなしておるようにあるんです。高かぁいですね、そのまあ言うなら植木でそれも家が見えない位に高い、所謂生垣なんです。ですから生垣ももう松なんかこんなに大きくなってるやつが、しかも上がパーツと切り揃えてあってですね、初め何だろうかと思ったんです、所が矢張り防風林らしいんですね。
 海岸ですからそれが一軒一軒、だから何々村と言うてまとまっていないです、それがポツンポツンと沢山有るんです。それでも私は不思議で堪りませんでしたから、宿に着いたら一番口に女中さんにそれを尋ねました。あぁあれですか、あれは防風林だと言う風なことを言うてですね、あれはその家その家の家柄を現すもんだと言われて居ります。結婚する時にその生垣がね何本あるかと言う事でそこの家柄がわかる。
 又は財産が分かる、だからその聞き合わせに行かんでも、その生垣の模様を見たり、生垣が綺麗にして有るとか粗末にしてあるとか、何本あると言う事、数えられる大きな木ですから。と言う事ででですね、あそことの縁が丁度こちらにもきちっと十本あるとするなら、もらう方もやる方も十本なからにゃならん、と言った様な風に言うそうです。昔からそう云う一つの風習でしょうね。
 いくら松の木が沢山、殆ど松の木ですけど、其の松の木が植わっておっても、手入れが行き届かなかったら、その家はまあいうたら乱れとると、言った様な風に言うらっしです、まあ本当に風習と言うものは所が変われば又色々なあれがあるもんだとね、思わせて頂いたんですけれども。特に結婚と言う事になりすと、家と家とを見合わせて。あるとても良い相性はよいちゅう訳、それでまあ、結婚をならもらいたいと言う。
 行きたいと言う所が決まって、愈々家見に行きなさった所が、もう麦藁屋根家の粗末な家じゃったそれだけで崩れた。勿論信心がある訳じゃないです、只此処にお伺いにみえた位の事でしたけれども。もうそれで壊れた。そしてもうそれこそ立派な家ぐらいの家でしたね。大きな家の嫁入りなさいました。ああやっぱ本当に丁度似合うた所に私は結婚が出来たと思うておりましたら、それから十年後聞きましたんですけれども、御主人が銀行に勤めて立派な方でしたけれども、もうそれこそころっと亡くなられた。
 子供さんい一人か二人か出来て、本当にその家柄とか人筋とかと言う様な事が、どんなに当てにならないものか、所謂人情柄を改めよとこう、私は今日はその人情柄と言う事をですね、もう本当にこう何と申しますか、なあにも言わんでも交い合う程しの人情柄に育てていかなければいけないと思うですね。今私の方に東京から、あちらのお父さんお母さんがみえております。
 今日帰れれると云う事ですが、何遍私はあの私は一緒にお食事をしたでしょうか、二遍でしょうか長い間おられるのに、それであちらとこちら、とこう離れておりますけれどもですね、別になあにも話さない、なあにも言わない、それでいてまあ一生懸命サービスしてもらっておる、と言う風に思っておられるのじゃないでしょうか、又私共もかもうたとか、かまわんとかそんな事じゃない、なあにもないです、それでいてやはり交流しておる。なる程神様が定めて下さったまあ言うならばですね。
 私の方は宗教関係、嫁の里の方は言うならお鮨やさんですから水商売、普通から言うならばです、例えば家柄一筋と言う事で言うなら、鮨やさんはやっぱ鮨やさん同志、教会は教会同志と言った様な事になって行きがちな所ですけれどもです、それでいて一つもこう違和感と言うかねえそう言うものがない、それでいてお互い説明し合わなければならない、自分の心根を聞いて貰わなければならないと言う様な事もない、なあにも言わんなりに交わいあっておると言うものを感じさせて貰うのですけれどね。
 私は人情柄を改めると言う事はそう言う事だと思うですね、特別取り立ててどうこうしなければ、向こうに通じないと言う事ではない程しの人情柄と言うものを、私は改めていかなければならない、そこから私はよいものが生まれてくる。子を産むは我力で産むと思うな、皆親神の恵む処ぞとこう、例えばこれは勿論出産の事ですけれども、例えばひとつのおかげを産みなすと言う事でもそうです、もう神様がお恵み下さるものなんです、自分達で例えばどうこう言うてもです。
 なら例えばそれは出産なら、出産の例をとるのが一番いいがです、どんなに子がほしいと言うても結婚して何年経ちましてもです、親神様の恵む処がなかったら、子供はさずからないでしょう、なる程親神様のお恵み下さる処なのです。そこで自分の言わば力みとか、自分の力で事柄を進めていこう又それをまあ良い方にしようと言う、例えばつまらん、力みと言ったようなものをとらせて頂いて神様にお任せする心。
 と言うて昨日の朝の御理解から言うと、人間心と言うのは例えば、人がお客さんがあるとするなら、まず見えると言う事が分かっておるならお掃除のひとつぐらいさせて頂いとかにゃいかん、座敷に花の一つも入れておくと言うのが人間心のようであるけれども、それが真だ真心だと言う風に申しましたですね。ですからそう言う意味に於いての人間心と言うか人情は、使わせて頂いても、ぎりぎりのところは神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと言うひとつの思い込み。
 これは私、今度御本部参拝から帰らせて頂きましたら、すぐある問題のお届けがありました。久富繁雄さんの事です、実はあの御本部参拝のあの日から今日まで、いろいろおっちゃまがえらい悩んどんなさる、苦しんでなさる、夜も眠られん位悩んで居られる、どうした問題じゃろ、こうこうこう言う問題だと、馬鹿んごたる問題で日頃の信心はどこさえにやってござるかのち、とまあ申しましたけれども そんなら繁雄さんの言うなら人情柄から言うと人柄から言うとです。
 なる程それはやはり眠られん位な心配でもあろう、これは親先生に対しても相済まないことになったと、まあ心配されておるだろうと言う事をお届けがありました。その後あちらの結婚式やらなにやらで、ゆっくりお話しをする機会もなかったから、私が話しをすればすぐ解決する問題だと思うておったです、ね。ちょっとヒントを与えれば大体分かっておられる方なんですから、信心が出来ておられるのだから。
 昨日も又改めれ博通先生がその事を大変心配してお取り次ぎを頂きます、これはよっぽど深刻な事じゃったばいなと思わせて頂いとりました。そしたら昨日、ここ二三日お初穂の整理が出来ておりませんでしたから、昨日半日がかりで御用にみえられました。そしてここであのー自分の御用が終わられてお届けされますのに、それこそ涙ながらにです、もうあれを思いこれを思いここ二三日有り難うして有り難うして有り難涙ばかりこぼれとりますとこう言われる。もう博通君のお届けと全然違う。
 その事をお届けされると思うとったらその事には全然触れられない訳です。そしてあれを思い此れを思いしたら、それから子供やら家内達がお父さん何か心配があるとじゃなかろうか、と言うて聞くけんで、いいやそげな事だんじゃなか、もう俺は有り難うして有り難うしてと、お前どんじゃ分かるまい俺の気持ちはと言う位にここ三四日感激のし続けでございましたと言う お礼のお届けがあったんです。
 してみるとなら私が何人からも、繁雄おっちゃまがこうこうだから、こう言う悩みで今苦しんでおられるからと言う事は、まるっきり嘘の様であります。けれどもその難儀な問題を通して愈々深刻に、まあそれも聞かんから分からんのですよ、そう言う問題を通して考えてみればみる程に、あれもおかげ此れもおかげと思うたら、こぼすまいと思うけれども有難涙がこぼれると言うて、昨日も涙ながらにその事をお届けされるんです。
 そして今朝方からこう言う先生お夢を頂きましたと言うのが、ここの若奥様が産気づいておられると言う所、それで奥様がそんなら早よう病院に行かじゃこてと言うて、色々用意をなさっておられるうちに、もうかるうくその安産のおかげを頂かれたと言う、お夢でございましたと言うのでございました。私はそれを聞かせて頂きながらですね言うならば、今日の人情柄と言うのがなあにも言わんで済む程しの人情柄と言うか。
 まあ言うならばなる程、この問題は親先生にお取り次ぎを頂いてお願いをしょうと思うて、お参りをして来たけれども、そこのお広前に入って障子を開けてきた途端にです、その悩みがそれこそ霧が払われるように、雲が払われるように払われてこう言う事は親先生に、お取り次ぎを頂く必要もない程しに、もう晴れ渡っておる程しの、私はお取り次ぎの働きと言うのはそんなものだと思う。
 必ずここでですねえこうですけんああですけんと言うて、お願いする間はまだ心に心配が残っておる、けれどもここへ入った途端に一つのお徳と言おうか、もう何もない程しの心の状態にもう言うなら言わんで済む、それでいて心が晴れておる有難くなれておる。まあ信心ちゃ有難い事じゃな、お広前に足を向けてお広前に着いた途端に、心配と言うものは悩みと言うものは、解消してしまう程のですおかげお頂けるのも金光様の御信心だと思う出すね。もうお取り次ぎの働きと言うものがもうお広前一杯にあると言う事。
 これはもういつも私皆さんから聞くお話ですけれども、もう本当に心配で有る、なら問題が有って、親先生にお願いさせてもらってお伺いしてからと思うて参りましたら、親先生がここに御結界に奉仕をしておられる、所謂その姿に触れた途端にですもうお届けする事がなくなる程しにおかげを受ける、もう絶対おかげになるですそう言う時には。こまごまとお取り次ぎを頂いて安心がいくと云う場合もある。
 普通は大体それです、けれどもそれを言葉に出して言わんでも解決する程しのひとつ信心と言うか、これは家庭問題と言い人間関係と言いです、その人情柄と言うのが、そのようなおかげを頂きたい物だとそう云う風に思う。所謂繁雄さんがお夢に頂いておられます様に、言ういうならば、そう言う体現問題があってなやんだ苦しんだと言う事は産みの苦しみの前提であったであろうと、つわりもあれば愈々産む時に言わば、産みの苦しみと言った様なものが有る、その苦しみである。
 けれども考えてみると天地の親神様から恵まれておるんだと言う根本的な所に触れた時に、有り難うして有り難うしてと言う事になった訳です。つわりの苦しみも有難い産みの苦しみも又有難いのだと。だから例えば産むどん腹を抱えたら、ほんにお宅はきつうあんなさいましょう、お困りで御座いましょうとは言わんでしょうが、もう出産間近になると愈々所謂お目出たいと言う事でありますのに、人間の悩みも苦しみも同じ事、特に信心させて頂く者は、悩みがあればある程。
 苦しみがあればある程、どんなにつわりがひどかってもです、それは例えば安産のおかげを頂く為の前提だと思うたら、その事はなさけないその事は苦しい、夜も眠られん位に歯がゆいと例えば言うような場合であってもです、それが愈々ものが産みなされてくる為の前提であると解らせて頂く時です、それはお礼を申し上げねばおられん、そしてあれを思いこれを思いさせて頂いて、おかげを頂いておる事に改めてびっくりする位だと言うのです。若奥さんと言う事が繁雄さんの事でしょう。
 親奥さんと言う事が親先生の事でしょう。これだけは親先生にお願いして、なら私もです繁雄さんがみえたならそのお取り次ぎを頂いとるもんですから、私がそんなら出産の、言うなら産婆さんがわりにでも、婦人科の先生の代りでもさせてもろうてね、そう思うておった。何人からもお取り次ぎを頂いとりましたから。けれども愈々産気ずいてきたから、そんなら私が昨日みえたから愈々御用ども終わったら、あんた今頃繁雄さんえらい悩んどるそうなが考えてみると、馬鹿んごたる話じゃないのと。
 日頃のあんたの信心はどこやったのと、言うて説明したらすぐにほんなこて親先生そうでしたと、分かられると確信を持っております。けれども全然いわんなり話さんなり、例えばもう、お医者さんに行く前に言うならば若奥さんが、安産のおかげを頂いておられると言う事です。もう繁雄さんは、その問題を通して、それを有難いものになしておられると言う事。ですからもうその事には全然、昨日一日おられましたけれども、触れんなりでございました、と言う程しのおかげが私は頂きたいと思うですね。
 信心ちゃ有難い、信心しとりゃそんなら、悩みや苦しみはないか、人間関係に全然もつれはないかと、やっぱりあるんですよ、私がその問題を聞かしてもらった時に、まあなんちゅう馬鹿な事じゃろか、例えて申しますと、昨日の御理解のシンでありましたように、我情我欲をとれば、問題はなくなると、我情があるから、我欲があるからそこに問題があるのです。ですからそこんところをです。
 四五日間一生懸命悩み苦しみ眠られん位に考えたけれども、その事を通しておかげを感じられた、いわゆるそれは産みの苦しみであって、根本的には天地の親神様から恵まれておる、問題だと分かった時にです、もうお届けなんかもうこれから先もその問題には触れられない、又こちらも触れようともしない。そしてそんなら有り難うして有り難うしてと言うところ迄いっておると言う事、此れは人間関係と言うのはのはね。
 それは問題はあっても、例えばそのような風な、一つの径路をたどらせて頂きながらのおかげであったら素晴らしい事だろうと思うですね皆さん。『懐妊の時復帯をするより心に真の帯をせよ』とこう。所謂例えばそう云う例えば、問題なら問題が起きた時にはですね、問題が問題になる時です、もう愈々本気で信心の帯をしなおさなきゃならん、信心の帯がずんだれとる時。まあこの記念祭から少しお互いの信心がずんだれとるような感じがする、その証拠には問題が一遍にパーッと起こったと言う感じが。
 昨日一日させて頂きました。例えて言うと一つの問題をですね三人の方が三人三様のお届けをされたんですよ、もう同じ問題ですよそれが。ね。それが三人三様がですね、もうあなたもそれはおかげ頂かねばなるまい、あなたもおかげ頂かんならん、あなたも、それが私はもう期せずしてその問題一つに三人の方のお取り次ぎ頂かせてもろうて、問題と言うのは本当に難儀な事だなあと私は思うたです。
 昨日の御理解が我情我欲をとれば問題はなくなる、と言う事なんですけれども。いかに私共が我情があり我欲があり人間の思いが、ああなればよいのに。もう私はこの問題が本当に具体的に話される問題なら、もう今日の御理解はその事だけでも信心は素晴らしいと言う事を分かりなさる思うのですけれども、問題が問題ですからお話出来ませんけれども一つの問題を三人三様の方達がですよ、お届けが昨日お届けがあったんです。
 本当にしかも一人一人が同じ問題でありながら実に深刻なんです、もう一身上の問題なんです、三人三様が。それを私がお取り次ぎさせて頂きましたらね、今は山に盛りに咲いていますねえ、つわぶきの花、あのつわぶきの花がもう黄ない花がいっぱい咲いとる所を御心眼に頂きました。つわぶきと言うのは皆さんも御承知のように、あれは一年中生き生きと青々としとる葉ですよね、そして今の時期にあの黄ない花が咲く訳です。
 生き生きと青々としとると言う事、黄ない花と言う事は「今中」と言う事、人間の様々などんな場合であってもです、例えばそんなら合楽教会がこのように、段々繁盛の一途をたどっておると、さあー御造営も出来た、西脇殿も出来たと。と言うて是がそれが成就と言う事じゃない、私はいつも今中だと思うております。まあだ今がまん中だと、例えば今がまん中。例えば苦労でもそう、今が苦労のまん中じゃろうかと言うような場合であっても、いやそう言う時であればある程です、つわぶきの生き生きした葉。
 いわゆる生き生きした信心と言う事、どう言うそれは深刻な問題であってもです、本人達が生き生きと、した信心させて頂いておる時ならば心配はいらんぞと言う、私に対するお知らせでした。これは三人三様どのように解決したらいいだろうか、神様とてもどういう手をもってこれを解決してくださるだろうかと、思う程しの問題であった。私がそう感ずる位であった、けれども三人三様熱心に信心できておるのであるから心配はいらん、つわぶきの花の様な生き生きとした、信心が出来ておるのであるからです。
 ですから信心を緩めないでさえいきゃ、三人三様皆んながおかげになると仰せられる。たからどんなに難儀な問題を抱えておりましても、みなさんの心がどうでも信心によって、おかげを頂かねばならんと言うて、信心修行に向こうておる時ならば、絶対心配がないです。おかげを頂いて言わば信心がずんだれておる時、それはなあにも平穏無事の様であるけれども、そう言う時には危ないそう言う時には危ないけれども、どう言う難儀な問題に直面しておっても、本人が信心によってその難儀を解決しようとしておる。
 信心によって、そこのおかげを頂こうとしておる、と言うのであるなら、その問題がどう言う問題であっても、これは取り次ぎ者として、心配はいらんと言う事、おかげになると言う事。昨日私はその事をその心配と言うのじゃないけれも、神様ほんにこう言うややこしい問題を、どう言う風に解決してして下さるたろうかと、思う程しの事でしたけれどです。しかも期せずしてですね、その一日の日にその問題をお届けさせて貰ってです、まあ神様の御都合じゃあるなと思いましたけれども。
 そのお知らせを頂いて、尚まあその事を通して銘々がよりよい信心を頂く事であろうと思わせて頂いた訳ですけれども。そう言う時に言うならば人に頼るとか、復帯に頼ると言うのでなくて、心に真の帯をしなおさせてもらうと言う心さえあれば絶対に安産のおかげが、受けられると言う意味なんです。問題が起こった時にもう由々しき事なんです、こう言う信心しょって問題が起こってきたと。もうあと一つの問題なんかはこれそ深刻でしたけれどもね、もう本当にその、悪い事でしょうねえ。
 あの色んな扱ってならないものを扱う、例えばモヒなんかそうですね、それがその暴露しましてね、そしてその追われておると言う人なんです。それがその解決をしかも子供さん連れてね、もう小さい乳のみ子なんです、を連れてもうその方は人相が変わる位に髭も生やして追われておられる訳です。それがそう言うお届けさせて頂いてから、これはもう本当にどうしてそう言う事に手をつっこんだんですかと言う様な事でした。
 けれどもここにお取り次ぎを頂いたが最後、そればってん今頂いた、つわぶきのお知らせを頂いた後でしたから心配いりませんよと、お取次ぎを頂いたが最後しっかりまあこうして毎日参って来るなさる訳にいかんのですから、お縋りして下さりゃ私がお届けさして貰うからと言うて、お取り次ぎさせて頂いたんですけれどもね。もう本当にどうするかと言う様な問題でありましても、本人がすると云う気があるし私の心の中にも、本人が縋る気があれば、おかげになると確信させて頂ける問題でありましたからね。
 所謂なら私も改めてです、昨日の様々な難儀な問題を通してです、私自身もひとつ復帯を締め直させて頂いて、いっちょお願いしようぞと言う気にならして頂いた。願う者もそうです、難儀な問題が一つ起こったら今迄の信心じゃいけんから、そう言う事になってるんですよ、今までの信心が言うなら間違うておったからそう云う事になっとるんですよ。ですからその間違いを本当に気付かせて頂いて、一段と信心の帯をしめ直させて頂く所からです、おかげが受けられるのです。
 又お取り次ぎさせて頂く者も安心です。一段と信心の復帯をしめ直してお願いにくるのですからねそれならば絶対心配はない。『出産の時よかり物によかるより、神に心を任せてよかれよ』例えば出産の時に色んなこうやって、ものにしがみついてから、よかり物によかるとはそう言う意味なんです、あちらの方言なんで教祖様のお言葉の。他のものにしがみついて産むと言うのでなく、神様に心を任せておかげを頂けと言う訳なんです。誰やら彼やら物やら金やらが、愈々の時に頼りになるものでは絶対にない。
 もう金の山積んだって駄目なんですよ、出来ん事は出来んのです。この人は実力者だと言ってもその実力者でもどうにも出来ない問題があるのですから、もう神様のおかげを頂くより他にないでしょうが。そう言う事を教えておられる訳です。それを例えば結婚から出産迄のいろいろな出産、結婚と言う事を例にとって、御教え下さってありますけれども、今日はそこのところを、 私共の一つのおかげは素晴らしいおかげが産みなされる為には、必ずつわりもあれば産みの苦しみもあると言う事。
 信心しておってどうしてこの様な事っじゃろかと云う様な、言わば神様を恨むような、あり方に成らせて頂いて、繁雄さんの問題でも、私がお取り次ぎを聞いた範囲ではでは、もう心を乱しておると言う感じでしたけれども繁雄さんはそれこそ、その事に取り組んでです、それは四五日かかられたようですけれどもです、ね。それを思えば思うにつけてです、その根本的に頂いておると言うものは神様から恵まれておると気づかれたんじゃないかと思う。ところがです、あれを思い此れを思いし。
 お礼を申し上げる事ばっかりだと気付かれた、そこからお取り次ぎを願わんでも頼んでも、私も言わんで済む程しにです、まあ産気ずいたとしたらもう医者に行かじゃこてと言ったところを、もう医者にも行かん産婆にも行かんなりに、安産のおかげを頂いておると言う程しのおかげが、昨日繁雄さんが受けられたおかげだとこう思うんです。ですからそう言う産みの苦しみの時に、つわりの苦しみの時に「どうして」なんて言う事は絶対これは神様に向かって、相済まない事なんです。
 苦しいけれどもそれを頂き抜かせて貰うと言う姿勢をとる事が大事である。そう言う事になるから折角ここに素晴らしいおかげを産み出して下さろうとする、神様の働きを水にしてしまう、所謂流産にしてしまう訳なんです。そして本当のおかげにはいつ迄経っても、もう産まれると言う事になって流産流産でおかげを頂けない人達が沢山有る事を、私は今日の御神訓を幾ケ条も続けて頂いてです、なる程こう言う時におかげを頂ききらんでおるな。おかげを落としよるなあと言う事を思うのです。
 だからそこん所を大事にして、それこそ神様のおかげを下さる、神様の喜びと言うか、おかげを頂いた時に私共があの修業中の事を今振り返ってみて、ようもあげな所を通らせて頂いたなと、昨日おとといの行徳先生の手紙じゃないけれども、こう言う激しい所をようもここを通り抜かれた、と言う事をあの本によって解らして貰ったと言う意味の事が書いてありますが。けれども今から考えてみますとですね、ひとつも私はそれを苦しいとは思っていなかったと言う事です。
 もう有り難うして楽しゅうしてと言う事だつたです、本当の事が。でなかったらあんなところを、苦しい苦しい、しるしいしるしいだったら通りきっとらんです。そしてその言わば産んでしもうてから思う事はです、それこそ産みの苦しみも有ったけれどもね、案ずるよりも産むが易しと言う程しの素晴らしいものが、産みなされておる姿が現在の合楽の姿だと思うのです。
だからそこを頂きぬくと言う事がいかに大事かそこん所をです、言うなら言わんですむ程しの事で解決が出来ていく様な風にです、私共の人情柄と言うものを改めていかなければいけないとゆう事なんです。まず心の状態を問題があればある程にです、あるいは大きな問題であればある程にです、それが今迄の信心じゃいけなかったから、そう言う結果になってるんですから。今迄の信心ではない一段と信心の復帯をしっかりと締め直してです神様に向かえば取り次ぐ者も取り次ぎよい、安心。
 そう言う問題をかかえながら、やっぱり今迄と変わらん信心するなら、やっぱり取り次ぎの者も心配。つはぶきのように生き生きと青々としとるならです、どんなに難儀な問題であっても、私はそれを今中と見るまあだおかげでもない、又おかげ落としでもない、こちらがしゃんとした信心さえすりゃおかげになると、確信をもってお取り次ぎが出来るのですから。そう言うひとつ信心を皆さんして頂きたいと思うですね、皆さん。
  どうぞ。